三丘OB会幹事会議事録

9    629() 17302000  新三丘会館

出席者:荒木、長澤、竹澤(10)、矢野(11)、角尾(15)、吉田、奥(18)、山之上、島田(21)、浄閑(24)、土井(25)、阪野(28)、藤原(29)、小倉、楠本(31)、山岡、川崎(32)、北野(33)、寺西(35)

(1)      バスケット三丘会会誌 別添参照(不備あれば至急連絡ください)

全て確認できたため、宣秀アートに校正依頼する。

1) 表紙      バスケット三丘会 

会   誌 

20028月現在)

写真(高校10回のインターハイ写真)

大阪府立三国丘高校、

2) 校歌(中学、高校)、応援歌(前口上追加、誤字訂正)

3) 会則 ⇒ 長澤幹事より薮内幹事(宣秀アート)にフロッピー送付済。

4) 総会挨拶(荒木会長)、歴代幹事、新役員紹介(小倉)

5) 思い出話(16)

神下(元顧問)、名越(元コーチ)、長島(2)、角、速水(6)、矢追(10)、西郷(15)、権代(20)、松田(25)、野崎(28)、中富(29)、岡田(33)、川上(36)、福田(45)、一坪(47)

*播本(元顧問)にも依頼中、間に合えば掲載。

6) スナップ写真 *各幹事希望写真を小倉まで送付、間に合えば掲載。

7) 思い出の戦績 (小倉)

8) 名簿

特別会員・・・松田教頭に川崎幹事確認完了

         旧顧問名、現顧問2名、元コーチ2名

      *宣秀アートで文面、会費(\5,000)変更して案内状送付依頼

一般会員・・・総会案内葉書を発送済。住所データ印刷発覚⇒宣秀に確認

高校期記入欄ないのは次回への反省事項

9) 写真集 入手済 ⇒ 小倉より宣秀アートへ提出

  高校36回・・小倉、高校5154回・・土井

(2)      総会動員

葉書返信状況:出席23名 (前回出席者118名)

添付資料『出欠確認』の分担に基いて動員をかけ、714日の幹事会で集計、出欠名簿を作成する。

(3)      総会役割分担及びプログラム

原案に対して各幹事の案を検討してもらい、次回幹事会で決定する。

 

『役割分担』

受付係              出欠名簿の確認、会費徴収・領収書発行、名札

接待係              来賓者の誘導、記念品の準備

司会               

進行                司会の補佐

撮影                集合、スナップ写真        江村、寺西

 

『バスケット三丘会プログラム(案)』

1.     開会の挨拶               物故者への黙祷

2.     来賓の紹介と挨拶          記念品の贈呈

3.     乾杯

4.     バスケット三丘会の活動報告     バスケット三丘会今後の活動に対する協力依頼

5.     現役部員の活動報告          寄付金の贈呈

6.     卒業年度代表者の参加者紹介とスピーチ

7.     記念集合写真

8.     番号くじ引き

9.     校歌、応援歌合唱

10.  閉会の挨拶

 

次回幹事会:              714() 13301600 新三丘会館

次々回幹事会:       727() 17002000 新三丘会館

以上


『別添資料』

ご挨拶(バスケット三丘会総会及び会誌発刊に寄せて)

会長 荒木敏之(第10回卒)

 バスケット三丘会の皆様、お元気でお過ごしのことと存じます。

このたび、予期せぬ大役を仰せつかることとなりました。なにかと不慣れですが、皆様方のご指導、ご鞭撻をもって本会の運営と母校男女バスケット部の発展に寄与するよう努力していきたく思っておりますのでよろしくお願いいたします。

 さて、早いもので前回の総会(平成10年8月)から4年が経ちました。我がバスケット部も創部77周年を迎え、その部員としてご活躍された男女は、900名近くになってきております。これらの方々が部生活で鍛えた三丘魂で一般社会の多岐にわたる分野でがんばっておられる様子を見聞きしますと実に痛快であり、我がことのようにうれしく胸をはってしまいます。いろんな意味で伝統のあるバスケット三丘会に育ってまいりました。

 この間長年にわたり本会のために心血を注いでくれました長島さん(高2回)をはじめ諸先輩、同輩、後輩の方々に改めて御礼を申し上げなければなりません。そして私たちより若い世代でこの伝統を受け止めしっかりと盛り上げていかねばなりません。申すまでもなく本会は、会員相互の交流と親睦を図ることを第一に考えております。私の拙い体験からではありますが常日ごろから気の合った仲間と交流を続けていることがどれだけ人生を楽しく、勇気づけられ、励まされ、気づかされ、発奮できたことか、最近しみじみ実感しているところです。

 会員のみなさま、各々グループの輪を拡げてください。そして4年に一度その輪がたくさん集まって総会という形で合流し、老若男女、その成果を確かめ合えれば本当にすばらしいことだと念願するものです。

 最後になりましたが、日夜現役のバスケット部員のためにご指導いただいております母校顧問の先生方々及び会員コーチの方々に深く感謝するとともに、本会の準備のためにご苦労をおかけしました準備委員の皆様にお礼を申し上げ、そして会員皆様のご健勝を祈念してご挨拶といたします。

平成14年8月11日

〔歴代幹事長の紹介〕

井原 要      高校 3回

橋本 靖夫    高校10回

一圓 光之    高校10回

速水 浄二    高校 6回

田中 耕太郎  高校13回

浄閑 容典    高校24回

〔バスケット三丘会新役員の紹介〕

会長            荒木 敏之    高校10回

副会長          吉田 収子    高校18回

              山之上 誠  高校21回

              島田 孝司    高校21回

幹事長          小倉 貞彦    高校31回

総務会計幹事        長澤 毅      高校10回

              土井 信幸    高校25回

相談役          長島 秀明    高校 2回

              角  泰範    高校 6回

              速水 浄二    高校 6回

              浄閑 容典    高校24回

幹事(男子)        矢野 彰      高校11回

              薮内 敏宏    高校13回

              角尾 恵資    高校15回

              山合 成司    高校17回

              深川 強      高校18回

              中島 斉      高校22回

              大畑 学      高校23回

              深井 紳三    高校26回

              松崎 香士    高校27回

              藤原 丈治    高校29回

              北野 洋一    高校33回

              寺西 正裕    高校35回

              露口 一成    高校36回

              加藤 有邦    高校37回

              吉川 崇      高校40回

              佐古 篤      高校42回

              福田 貴至    高校45回

幹事(女子)        竹澤 京子    高校10回

              吉川 芙美子  高校15回

              奥  孝子    高校18回

              佐藤 紀子    高校18回

              阪野 昌子    高校28回

              楠本 淳子    高校31回

              川崎 加葉子  高校32回

              山岡 茜      高校32回

              北村 珠美    高校33回

              上野 朋子    高校35回

              川上 桂子    高校36回

              安野 智里    高校47回

              薮  良美    高校54回

              佐々 京香    高校54回

 


思い出

旧顧問  神下 守

 私は昭和37年『1962』8月三国丘高校へ転勤後まもなく、早く逝かれた新名友史先生、専門家の播本清子先生とともに顧問の末席をけがしました。今なお印象深く残っているのは38年インターハイで新潟の三条へ出陣したことです。長島秀明・田中耕太郎先輩の緻密なコーチのもと、湯浅尾乙示主将以下選手諸君の、文字通り涙ぐましい練習の賜物でした。結果は3回戦で、優勝した地元の三条高校に3点差で惜敗しましたが、そこまで追い詰めたのは我がチームだけでした。宿舎へ多くの大学から勧誘に来ましたが、本人の意思も聞き、凡て断りました。しかしその年の進学成績は決して他年度に引けをとることはありませんでした。部活動と勉学とは両立させうるという私の持論を立派に立証してくれました。その前年の宇部大会でも3回戦まで進むという、誠に黄金期だったと思います。その後永く私立等の跳梁を許しておりますが、次の黄金期を早く迎えたいものだとエールを送ります。

 

国民体育大会と全国高校選手権大会

元コーチ 名越 定

私が三国丘高コーチとして活動し始めたのは、昭和23年暮れ頃と思います。そして翌24年に旧制堺中学時代を含め、団体競技としては初めて、全国レベルの第四回国民体育大会(東京)兼第二回全国高校選手権大会に、国体3年連続出場を目指す北野高を予選決勝で1点差で破り、初出場を果たしました。

 ここで少し戦前の明治神宮大会(現国民体育大会)、全国中学校大会(現全国高校大会)が、戦後何時、今の国体高校の部と、全国高校大会に切り替わったかと振り返りますと、昭和21年に第一回国民体育大会が京阪神を中心に開催され、昭和23年に第一回全国高校大会が、第三回国体に抱合され実施されました。したがって、第一回、第二回の全国高校大会は、第三回(福岡)第四回(東京)国体で抱合開催となり、全国高校大会の独自開催は昭和25年愛知県からとなっています。

このような変遷を経て今日の両大会の隆盛があります。昭和24年、我が母校もその抱合開催時の大阪代表として活躍しましたことを、なつかしく思い出しました。

 

荒木敏之会長誕生に寄せて

高校2回 長島 秀明

この度、長い間不在だった当会の会長に、荒木敏之氏が就任することになりました。人選に当っては、歴代幹事長、元役員、そして日頃会のお世話をいただいている方々に数年前から相談して参りました。そんな折、荒木氏が会社を退かれ比較的動きやすい立場となったと聞き、白羽の矢が立った次第です。

高校10回の彼は、バスケット歴も長く、造詣も深い上、温厚な性格と魅力あふれる人物で周囲の人望も厚く、バスケット三丘会の顔として、他部の組織にも充分対応し得る人と、皆様の賛同を得ました。決して名目のみの会長に甘んずることなく、牽引車として活躍してくれるものと信じます。

 そこで早速ながら課題が二点。一つは会員900名にも及ぶ大所帯となった今、世代を超えた幅広いつながりを具体的に考えること。もう一つは、現役生への支援です。週5日制の導入や受験を視野に入れた厳しい教育環境の中で、現役は文武両立を理想とし、日々の練習に励んでいます。充実した活動の結果、中央大会への進出、他府県勢との交流試合など、着実に足跡を残しつつあります。この前向きな姿勢を何とか会としても全面的にサポートしていければと思います。この2点に基き伝統あるこの会が、ますます発展していくよう、荒木会長に皆様方の絶大なご協力をお願いいたします。

 最後に私事で恐縮ですが、卒業以来、蔭ながらこの会の設立から活動、運営に携わってきて、到々古希を越えてしまいました。荒木会長の誕生を機に一応の役割を果たせたと満足し、今後はのんびりとエールを送りながら見守っていきたいと思います。

 

思い出

高校6回 角  泰範

三丘バスケ入部、体育館に速水君と一緒に初見参、見たこともない大男(牧野先輩)が闊歩しているのに感激、今なら2m級の威風。練習初参加、ボールが小さくて真ん丸。フリースロー、リングが近くてよく入る。三中時代、自前で造成した校庭のコート。サイズは最大規格で設定。手動ポンプで膨らますチューブ入りの皮の古いボールは伸びて長円形。道路のような地面は良く滑る。それに較べ高校のコートはまるで天国。ダッシュ、ストップ自由自在、気分は御機嫌。新2年同窓の辻君、ジャンピングマシンの片桐先輩も入部。新一年生合格発表の日掲示板の前で張り込み。バスケにはノッポが必須、野球部志望を口説き落として金銅(慶応)バスケに。同期の東(全日本ハンドヘッドコーチ)と後日名コンビに。イチロースタイルの西田先輩達と高津を倒して山形酒田市のインターハイに。入場式、牧野先輩はやはりノッポのトップ3入り。スターティングメンバー3人試合半ばで5ファール退場、初戦敗退残念至極。配給米持参の酒田大会、宿舎の銀シャリは絶品、本当においしかった。

良き先輩後輩に恵まれ実社会入り後もオニツカ(アシックス)シューズ初輸出(U.S.A.)、コンバース総代理店、日本初、コーチクリニック12回開催等生涯バスケットに関わり公私共楽しく過ごせるとは・・・当時は露知らず。

 

バスケットボール三丘会

高校6回 速水 浄二

私が三国丘高校バスケットボール部に入部したのは昭和26年(1951)51年前でした。伝統校にふさわしく威風堂々とした校舎と壁は頑丈だがバスケットをするには狭すぎる体育館(今はもう新しくなっておりますが・・・)で体のでかい先輩たちに緊張の中、迎えられました。私たち新入部員はやはり基礎からみっちりと特訓を受けました。その当時から印象の深かった事は名越コーチはじめ、長島、井原、長井、鈴木、宮井、鶴野諸先輩はじめ多くの先輩たちが指導に来られユニホームに着替えられ現役と一緒に汗を流し練習に参加してくださった事です。お仕事の合間を縫って駆けつけてくださったり、春や夏の強化合宿には一緒に寝泊りをしてくださりバスケット以外の青春学や社会学もいろいろと伝授してくださいました。当時は日本が太平洋戦争に負けて、まだ6年しか経っておらず国の財政も経済力も豊かではなく食糧難、就職難の時代でしたが先輩たちは現役のため練習参加や指導はもとよりボール代や遠征費用にと何かとカンパや差し入れなどご支援くださいました。

私は私達の時代の一端を述べてまいりましたが、我が母校に篭球部ができた大正14年(1925)から2002年の「今日」まで三国丘バスケットボール部に所属していた面々は、それぞれ、その時、その時代を過ごして来たすばらしい体験と思い出をお持ちです。そして全員が共有してきた体験は三国丘高校でバスケットをした事とバスケット三丘会にはすばらしい伝統があるんだなあと言う実感です。ちなみに国語辞書には「伝統」とは「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐところのもの。」と出ております。私達の三国丘バスケットボール部とバスケット三丘会がますます発展向上していくよう、みんなで協力をして、このすばらしい伝統を守り続けて行こうではありませんか。

 

バスケットボールと私

高校10回 矢追 正子(旧姓 二国)

高校時代の一番の思い出はバスケットボール、学校へはバスケットをしに行っているようなものでした。体育館が使えない時は外のコートで擦り傷を作りながら練習しました。練習が終わると皆でいちもくさんに正門前の三国屋さんへ・・・食欲旺盛でした。

先日何年かぶりに高校近くを散策しましたが、すっかり様子が変わっている中で、昔通りの三国屋さんを見つけ、懐かしさで胸がいっぱいになりました。残念ながら店が閉まっていましたが、もう一度あの焼きそばを味わってみたいなあと思います。

バスケットで失った物は前歯三本(体育館の肋木にぶつかって抜けました)、得た物は良き友と元気とその他いっぱい。その後も無い歯をくいしばって(?)スポーツを続け、楽しみました。

バスケットで覚えたチームプレーの楽しさを忘れられず、長男が小学校1年生の時、PTAのサークルでママさんバレーを始めてから30年近く経ちました。30代40代の頃はばりばり(?)やっていましたが、今は若い人達のお手伝いをしています。

青春の一時期、バスケットボールに心を燃やし、いっしょに汗を流した仲間は、私の一生の大切な宝物です。

 

高校15回 西郷正雄

卒業してから39年が過ぎてしまった。早いものである。高校時代は、丸坊主でバスケットをしていたが、今は、その時と変わらないぐらいに髪がなくなった。あの頃は、シュートがよく入ったものだ。それが功を奏して、インターハイ。ベスト16まで考えもしていなかったことが実現できた。先輩の言葉を思い出す。しんどい時にがんばれ! シュートは無理な体勢で撃つのでなく、遠くても楽な状態で撃て!!受験のことを忘れてよく続けたものだ。そのためか?一浪したが、途中で止めても一浪している者がいると、やはり止めなくて良かったと。

今でも帰省すると城田や角尾と、また2年の時に受験でやむなく止めた酒井とも会っている。東京では、転勤してきた大島と肝心の辻とは、年賀状で会おうかといいながら何故か会っていない。

不思議なことに今でもバスケをしている夢を見る。でもシュートが全然入らなくて、寝間の中で足をばたつかせたりしてもがいている。テニスを20年ほど楽しんでいるのに夢に出てきたことがない。足腰も良くなくてバスケのできる状況ではないのに、頭にはバスケがまだ詰まっているのかもしれない!

 

強化練習と青りんごとマラソン

高校20回 権代美重子(旧姓 一氏)

 私たち20回生は、6人が部員として卒業を迎えました。私たちは皆まじめな部員でしたが、高校に入って初めて運動部の活動を経験するという面々がほとんどで、どの大会もたいてい一回戦か二回戦で敗退。戦績のほどは芳しくありませんでした。

心に残るのは強化練習のときの光景です。灼熱の夏、金岡体育館、天窓から差し込む陽光、円陣を組んで声を掛け合うとき滴る汗が床に円陣を描く。休憩、先輩からの差し入れの青りんご、ガリリと口に広がる酸味と香気、くたくたの身体に元気が蘇り心に広がる小さな充足感。今でも青りんごを見ると汗だくでがんばった強化練習のことを思い出します。

部の球史に戦歴を書き加えることはできませんでしたが、思いがけないオマケがつきました。恒例の全校マラソン女子の部で、高一2位、高二6位入賞。小中と学校の授業以外に運動とは無縁だったのですから、これには私自身がびっくり。練習の積み重ねや最後までがんばることをバスケットの部活を通して教えていただいたおかげだと思います。

 

「いい人たち」

高校25回 松田 康弘

三国丘を卒業して来年で30年。でも今でも高校時代の記憶が鮮明に蘇る。狭山中学を卒業して高校受験する際、一年先輩に浄閑さんいてそれで私も三国丘へ。入学式前の春休みからバスケの練習に参加した。当時15人位の新入生が入部したが、結局最後まで残ったのは5人。土井、鶴留、西野、辻尾、当時の監督は金銅さん、コーチは長島さん、橋本さん、山合さん、三浦さん、中島さん、一圓さん、晴海さん、大畠さん、などなど書ききれない。その後義兄の勧めで慶大に進学し、現在は銀行員として銀座で悪戦苦闘している。

高校時代、出会った同期はもちろん、先輩、後輩、すべての人たちがみんな「いい人たち」ばかりだったと、振り返ると心から思う。大げさに書くつもりはないが、高校時代の3年間の出来事は「いい人たち」に囲まれて過ごした。貴重ですばらしい3年間で、感謝しても余りある。

 

鶴留さんを偲んで

28回卒 野崎玲子(旧姓 福山)

 4年前の春、私たちのコーチ鶴留隆さんと永遠の別れをいたしました。その三ヶ月前、病院のベッドの上で、あの頃と同じ笑顔で明るく語られていたお姿を今でも忘れることができません。

 輝かしい戦績を残された先輩方のあとを受け、私たちのチームがスタートしました。人数は8名程度、力も地味。こんな不安いっぱいの私たちのコーチを鶴留さんが引き受けてくださり、毎日大学の帰りに来て、一緒に汗を流してくださいました。

 高2のマラソン大会。部員の誰もが力を抜いて走り、惨憺たる成績でした。「何位やった?」期待を込め尋ねられた鶴留さんは、私たちの返答に顔色を変えられ、長い説教のあとに各自の順位の倍だけグラウンドを走るように言われました。私は160週ぐらいでした。悔やんでも遅く、その日から毎日の練習後にみんな黙々とグラウンドを走りました。練習中の厳しい大きな声とにこやかな笑顔とともに、鶴留コーチを思い出す懐かしい出来事のひとつです。

 

思い出

高校29回 中富 健

体育館での三年間の汗は、その後の生活の中で常に自信となり、大きな財産になっています。40才前に足の筋肉を切るまでは、ずっとどこかでバスケットを楽しみ、交流が広がりました。特にアメリカでは会話が弾みます。ハワイ大学の応援でも騒ぎます。

現役時代は体力が無く、いっぱい居た同期も三年生では5人となり、三角パスしかできなかったり、オールコートのスリーメンの順番が直ぐに回って来るのが、当時はきつかったのを覚えています。今みたいにスポーツドリンクがあれば、練習をもっと楽しめたかな、と折に触れては思い起こします。そんな中、コーチの中島さんをはじめ、とにかくたくさんのOBの方が参加して下さる日曜日の練習が嬉しかった。速攻を追いかけて最後に必ずボードを叩く人や、サイドラインにボールを追って飛び込んで前転する姿を見て、驚いて、それから気合が入り、“俺もやったろ!”と真似したもんです。前後数年の幅を超えて、今でもお会いしたく、会えば楽しい先輩方に感謝しております。大阪ベスト8を手伝ってくれた後輩も好きです。

 (ハワイに来て下さい。歓迎します)

 

現役時代を振り返って・・・

           高校33回 岡田 保彦

今、日本はサッカーワールドカップに沸いています。日本の決勝トーナメント進出が決まる一方、強豪フランス、アルゼンチンなどが一次リーグで敗退。スポーツのおもしろさ、意外性などが顕著に表れているように思われます。

 思い起こせば20数年前、夏の府総体で幸運にも優勝したにも関わらず、次の新人戦で府ベスト8に進みながら、近畿大会(大阪府から7校出場)に行けなかったことが脳裏から離れません。きっと私たちにも今回のサッカー強豪国のような「慢心」があったのではないかといまさらながら悔しい思いがします。16,7歳の年齢では仕方がなかったのかもしれませんが。

 社会人になった今も、自分の仕事にあの当時の事をだぶらせることがあります。技術面、精神面が少しでも磨かれるよう監督・コーチ・OBがどれほど熱心に指導してくださったか。本当に頭の下がる思いでいっぱいです。おかげで今日の私たちがあるといっても過言ではないと思います。この場をお借りして改めて長島秀明監督、諸先輩方、先生方にお礼を申し上げたいと思います。

 3年間の締めくくり、インターハイ予選では、府下ベスト4、決勝リーグまで残ることができました。今となってはすばらしい思い出です。しかし、戦績だけでなく、団体スポーツを通しての仲間意識、諸先輩・後輩との交流、継続することのすばらしさ、忍耐力の大切さなどさまざまなことをバスケットボールは私たちに伝えてくれました。本当に充実した日々を過ごすことができました。

 できれば、いや、ぜひとも今の現役の方、そして次世代の方々へもこのすばらしい伝統を受け継いでいただきたいと切に願っております。

 最後になりましたが、33回にこのような機会を与えていただき、心より感謝したいと思います。ありがとうございました。バスケット三丘会のますますの発展を祈念し締めくくりとさせていただきます。                                 

 

高校時代の思い出

高校36期 川上 桂子(旧姓 河島)

私にとって、高校の思い出として最も鮮明に記憶に残っているのは、体育祭でも文化祭でもなく、あのやや暗い(コウモリがたくさんいた)体育館の2階と、隠れ家のような部室の情景である。土日も祝日も練習に通った。放課後だけでなく、朝練も(ときどきさぼったけど)した。朝練した日は早弁をして、お昼はお昼で三国屋でしっかり食べた。自習時間があると何か食べるために外出した。「(外出はいいけど)アイスクリームを食べながら帰ってくるのはやめろ」とある先生に注意されたことがあったが、今はどうなんだろう?

 試合の成績は決して芳しくはなかった。今から思えば、「試合に勝つ」という意識は希薄だったかも(コーチの北川さん、阪本さん、ごめんなさい)。でも、体育館や部室に確かな自分の居場所があった。卒業から20年経った今も、バスケ部の同級生が集まると、気がつくと皆、練習後に三国屋でしゃべっていたのとほとんど同じ調子で騒いでいる。

 

バスケット三丘会によせて

高校45回 福田 貴至

平成14年、我が三国丘高校バスケットボール部は創部77周年を迎え、この長い歴史の一員であることを誇りに思います。

近年は大阪のバスケットは非常にレベルが高く、悲願である近畿大会、全国大会出場は達成されずにいますが、47回の堺選手権優勝や51回の大阪ベスト16等、あと一歩の代もあります。しかし、戦歴に関して言えば、どの代も悔しい思いをしています。しかし、何よりも大切なことは、バスケットボールをやり通したということです。バスケットを続けた事で学んだ経験が一生の財産になっていると信じています。

私自身、高校当時輝かしい戦歴をおさめる事はできませんでした。しかし、卒業して10年になる今もなお、クラブチームを通じて先輩、同期、後輩とすばらしい絆を築くことができた事が何よりの財産です。

これから、10年、20年と三国丘高校バスケットボール部の歴史が続いていくことを祈ります。

 

バスケで得た思い出

高校48回  一坪 さやか

一生懸命ボールを追いかけ、走り回った日々。足まわりが一まわりも二まわりも大きくなるくらい鍛えた日々。ドキドキしながら試合に臨んだ日々。水道のように汗が流れ、顔を真っ赤にしながらひたすら前を見ていたあの頃がなつかしい。確かにしんどいこともたくさんあったけど、バスケをやっていたことで得たものは本当に大きい。シュートが入った時のうれしさやディフェンスで相手をとめた時の満足感、試合に勝った時の喜び…。また、思うように体が動かないはがゆさや、後もう少しのところで一歩及ばないくやしさ…。たくさんの気持ちを知ることができた。でも、やはりそんな感情を共に分かち合えた友達、先輩、後輩、コーチがいたからこそ、泣いたり笑ったり肩をたたきあったりできたんだと思う。バスケがたくさんの人を出会わせてくれ、なお、それが広がっている。今自分が立っている原点である、バスケで得たいろんな思い出はずっと大切にあたため続けたい。


<思い出の戦績>

昭和23年        第三回国体予選(第一回インターハイ予選)

                        準優勝(三国丘 41-46 北野)

昭和24年        第四回回国体予選(第二回インターハイ予選)

                        優勝(三国丘 27-26 北野)

第四回回国体(第二回インターハイ) ベスト8(東京)

1回戦(三国丘 41-28 滑川・富山)

2回戦(三国丘 27-30 山形東・山形)

昭和27年        第五回インターハイ予選

                        優勝(三国丘 ○-● 高津)

第五回インターハイ(酒田)

1回戦(三国丘 ●-○ 高崎・群馬)

昭和29年        第七回インターハイ予選 準優勝

第七回インターハイ(秋田)

1回戦(三国丘 49-50 北園・東京)

昭和31年        第九回インターハイ予選 優勝

第九回インターハイ(鳥取)

2回戦(三国丘 ●-○ 三条・新潟)

昭和31年        第10回インターハイ予選

優勝(三国丘 43-23 天王寺商)

第10回インターハイ ベスト8(長崎水害で東京)

準々決勝(三国丘 34-68 岐阜高)

昭和37年        第15回インターハイ予選 第二位 

第15回インターハイ (宇部)

3回戦(三国丘 62-70 鳥取高)

昭和38年        第16回インターハイ予選 優勝

第16回インターハイ (三条)

3回戦(三国丘 67-70 三条・新潟)

日韓親善国際大会

三国丘 52-86 光新商高・韓国

昭和43年        第15回近畿大会

                        2回戦(三国丘 57-60 県尼崎・兵庫)

                第21回インターハイ予選 第4位

昭和44年        第16回近畿大会 第3位

                        準決勝(三国丘 49-92 八尾・大阪)

昭和47年        第19回近畿大会

                        2回戦(三国丘 69-97 洛北・京都)

<女子>第19回近畿大会

                        2回戦(三国丘 22-93 長浜商工・滋賀)

昭和48年        第20回近畿大会

                        1回戦(三国丘 66-83 同志社・京都)

                第26回インターハイ予選 ベスト4

昭和52年        第24回近畿大会

                        1回戦(三国丘 61-66 奈良・奈良)

昭和54年        第34回大阪総体中央大会・優勝

                        決勝(三国丘 70-66 大商)

                第34回インターハイ予選 ベスト4